830.1M 2021-04-05
ソウル特別市 中区 ウルジロ30
+82-2-772-3997
日本式デザートの店です。ソウル特別市のチュン区に位置したカフェ(コーヒーショップ)です。代表的なメニューはエスプレッソです。
832.1M 2021-12-21
ソウル特別市 中区 明洞キル 35
明洞(ミョンドン)芸術劇場は、明洞国立劇場(当時)として使用していた建物を修復し、新たな姿に生まれ変わった公演専用劇場です。
明洞国立劇場は1934年から1973年までの間、映画館や公演場、芸術劇場などとして利用され、韓国の文化芸術の先駆的な役割を果たしてきた劇場でした。1975年に一度、幕を下ろしましたが、3年間の修復工事を終え、「明洞芸術劇場」という名称で2009年6月5日、新たなスタートを切りました。
建設当時の昔ながらの外観をそのままに生かした明洞芸術劇場ですが、内部は全面改装し最新の舞台施設を備える総客席数588席を誇る劇場となっています。客席と舞台は観客とステージ上の俳優との目の高さを考慮しその距離を短くし、客席の観客が舞台上の演者とともにいるかのような雰囲気の中で鑑賞できるよう配慮しています。
明洞芸術劇場では正統派演劇から実験的な演劇に至るまでさまざまな演劇、ノンバーバルパフォーマンス、ミュージカルなどの多種多様な演劇の上演をはじめ、各種コンテストや演劇祭、公演芸術祭など多彩な公演関連行事も楽しめます。
832.9M 2022-09-14
ソウル特別市チュン区ミョンドン8ギル7
金剛(クムガン)製靴は、靴の製造・加工だけでなく、スポーツシューズ、カジュアルシューズやファッション、アクセサリーなどを生産するファッションブランドとして全国に多くの代理店を有しています。金剛製靴明洞本店は、明洞の中心に位置し、外国人観光客が多く訪れています。リーガルの男性フォーマルシューズ、女性フォーマルシューズ、ハンドバッグ、財布、アクセサリーなどが人気です。また、靴のサイズが大きすぎたり小さすぎたりする人のために、ビッグ&スモールコーナーが設けられており、個別のオーダーメイドも可能です。
833.4M 2024-03-11
ソウル特別市チュン区セジョンデロ19ギル24
徳寿宮(トクスグン)石垣道は、徳寿宮の石垣沿いに続く道です。美しい照明と造景のため夜にもロマンチックな雰囲気が感じられます。ストリートパフォーマンス、フリーマーケットが開かれたり、貞洞道(チョンドンギル)沿いに立ち並ぶカフェ、グルメ店も多いです。秋にはイチョウと石垣が融合して素晴らしい景色を誇ります。ソウル市立美術館、ソウル歴史館などの主要文化施設からも近いため散策コースとして適しています。
836.0M 2021-04-05
ソウル特別市 中区 ミョンドン8ギル11-6
+82-2-776-3896
40年の伝統を持つ海鮮鍋専門店です。おすすめは海鮮鍋です。ソウル特別市のジュン区に位置した韓食専門店です。
835.3M 2021-04-06
ソウル特別市 中区 ミョンドン8ギル21-7
+82-2-3789-3334
韓国で人気のタッカルビ料理に様々なトッピングを加えて楽しめる店です。ソウル特別市のジュン区に位置した韓食専門店です。おすすめはタッカルビです。
837.9M 2021-04-02
ソウル特別市 ジュン区 ミョンドンギル25-11
+82-2-776-8929
1966年から営業してきた伝統的な店です。代表的なメニューはソルロンタンです。ソウル特別市のジュン区に位置した韓食専門店です。
839.8M 2024-06-19
ソウル特別市チュン区セジョンデロ99
史跡・徳寿宮(トクスグン)は、元々王宮ではなく、成宗(ソンジョン=1457~1494年・在位:1469~1494年)の兄にあたる月山大君(ウォルサンデグン=1454~1488年)の住居として使われていました。
1592年壬辰倭乱(日本で言う「文禄・慶長の役」)により王宮が全焼し、翌1593年、仮の王宮・行宮(ヘングン=離宮)として使われるようになりました。 壬辰倭乱により朝鮮時代第14代の王・宣祖(ソンジョ=1552~1608年・在位:1567~1608年)が都を離れ義州(ウィジュ)に避難、その後、漢陽(ハニャン=現在のソウル)へ戻ってくると、居をここ徳寿宮に構えました。 宣祖の後を継ぐ第15代の王・光海君(クァンヘグン=1575~1641年・在位:1608~1623年)は、1608年行宮となっていたこの場所で即位、1611年この行宮を慶運宮(キョンウングン)と改称し、以降7年間にわたり王宮として使っていました。しかし1615年になると、昌徳宮(チャンドックン)に居を移し、それ以降は270年に渡り、離宮として使われることになります。
朝鮮王朝第26代の王で大韓帝国時代には皇帝でもあった高宗(コジョン)(1852~1919年・在位:1863~1907年)が1896年2月からおよそ1年間、ロシア公館に一時身を寄せ、翌年、王宮に戻ってきましたが、その王宮がこの場所で、以降この場所が再び王宮として利用されることになりました。
高宗が再び王宮として使うようになり王宮の名称も再び慶運宮と呼ばれるようになり、その規模も拡大しました。そして、高宗皇帝は1907年、朝鮮王朝第27代の王・純宗(スンジョン=1874~1926年・在位:1907~1910年)に譲位した後も引き続きここに住み続け、王宮の機能は昌徳宮へと移りました。
引き続き、慶運宮に住むこととなった高宗ですが、高宗の長寿を願って、名称を徳寿宮と改称しました。
このような経緯があったことから現在、元々の慶運宮という名称を使うべきであるという声も上がっています。徳寿宮には過去、数多くの建物が存在していましたが、18,635坪(約6.2ヘクタール)の敷地に残っているのは、大漢門(テハンムン)、中和殿(チュンファジョン)、光明門(クァンミョンムン)、昔御堂(ソゴダン)、浚明堂(チュンミョンダン)、即阼堂(チュクチョダン)、咸寧殿(ムニョンジョン)、徳弘殿(トコンジョン)、そして石造殿など一部にすぎません。
徳寿宮は、特に朝鮮時代末期から大韓帝国時代にかけての旧韓末の悲運の皇帝・高宗が日帝の圧迫により譲位を強要され、恨(ハン)に満ちた余生を送り、1919年1月22日、徳寿宮の咸寧殿で日帝により毒殺されたと人々に伝えられ、翌々月の3月3日に予定されていた高宗の葬儀の直前の3月1日に起きた3・1独立運動の直接的な引き金となった現場でもあります。
* 大漢門 -大漢門は現在では徳寿宮の正門となっています。元々の名称は大安門(テアンムン)で、王宮の東門として使われていました。この大安門は1906年に再建され「大漢門」という名称がつけられました。扁額の文字は当時、漢城府(ハンソンブ=現在のソウル)判尹(パニュン=漢城府の長)を務めた南廷哲(ナム・ジョンチョル)によるものです。
* 光明門 -光明門は王の寝殿・咸寧殿の正門で、光武(クァンム)8(1904)年の大火により焼失したものを、同年再建したものです。1938年、石造殿を美術館として使い始め、貞洞(チョンドン)にあった興天寺(フンチョンサ)の梵鐘や昌徳宮の報漏閣(ポルガク)にあった自撃漏(チャギョンヌ)を現在の場所へ移した際に光明門も同時に移築して現在のところに建て直しました。
* 石造殿 -大韓帝国時代、外国の使節と接見した場所です。光武4(1900)年着工、隆熙(ユンヒ)3(1909)年完成した石造の建物で、朝鮮王朝で最後に建てられた大規模建造物です。建物の外観は十九世紀初めの欧州で流行していた新古典主義様式に倣ったもので、正面にある柱の上部にはイオニア様式で施しており、室内はロココ調の装飾がなされています。建物は3階建てで、1階には接見場所が、半地下階には侍従らの控室の場所として使われ、2階には皇帝のスペースとなっていました。植民地支配が終わりを告げた1945年の光復(クァンボク)以降は米ソ共同委員会会議場、国立博物館、国立現代美術館、宮中遺物展示館などとして利用されました。
* 咸寧殿 - 宝物に指定されている咸寧殿は1897年に建てられ、高宗皇帝が居を構えた建物として知られています。1904年の火災により焼失しましたが、同年建て直し現在に至っています。高宗皇帝は1919年1月21日この咸寧殿で薨去しました。その後使われなくなった咸寧殿に当時使われていた家具、書画、什器などを配置し、およそ100年前の王宮での暮らしぶりを改めて再現しました。
* 中和殿 - 大韓帝国の正殿として使われ、朝鮮王朝第26代の王・高宗の近代国家建設に懸ける自信が垣間見れる建物です。特に正殿内には御座の真上の天蓋を見ると、龍が二匹描かれているのが確認できますが、これは正殿の天井の龍のような模様となっており、徳寿宮が大韓帝国皇帝の皇宮であったことを感じされます。 現在残っている中和殿は1902年に重層の建物として建てられましたが、1904年の火災で焼失、その後1906年に平屋造りの建物で重建されました。
* 重明殿 - 重明殿(チュンミョンジョン)はロシアの建築家サバティ(Seredin Sabatin)の設計により1897年から1901年にかけて建築された皇室図書館です。地下1階を含む二階建ての西洋式の建物で、当初は漱玉軒(スオゴン)と呼ばれていました。2009年12月に復元され、2010年8月からは展示館「大韓帝国の運命をかけた場所、徳寿宮重明殿」として一般に公開されました。
* この他、昔御堂、浚明堂、即阼堂、静観軒(チョングァノン)、徳弘殿、報漏閣自撃漏などがあります。