観光 - 韓国旅行情報

東国寺(群山)(동국사(군산))

東国寺(群山)(동국사(군산))

2024-04-07

チョンブク特別自治道 群山市 東国寺キル16

東国寺(トングクサ)は1909年から群山(クンサン)で布教を始めた曹洞宗の日本人僧侶・内田仏観(善応仏観)が1913年に建立した寺です。
日本強占期(1910~45年)の間、日本人の住職によって寺は守られてきましたが、1945年8月15日、日本の植民地支配から解放される日を迎え、大韓民国の懐へ戻ってきたという苦難の歴史を持つ寺です。
東国寺は韓国に残された唯一の日本式の寺で、大雄殿と寮舎の建物が渡り廊下でつながっているのが特徴です。
韓国の伝統家屋に見られる原色鮮やかな丹青(タンチョン)で彩られた韓国の寺院とは異なり、装飾がない軒や大雄殿の側面には多くの戸があり、日本的な雰囲気を醸し出しています。
東国寺は曹渓宗第24教区・高敞(コチャン)禅雲寺(ソヌンサ)の末寺に当たります。
東国寺の大雄殿は2003年7月、国家指定登録文化財に指定されました。
東国寺の元々の名称は錦江禅寺(錦江寺)と言われていました。この錦江禅寺は1909年、内田仏観という日本人僧侶が群山に布教所を開設し創建した曹洞宗の寺でした。

日本の仏教は1877年、釜山(プサン)の開港とともに、日本政府の要請により流入してきました。
一番最初に浄土真宗大谷派が布教を開始し、1904年群山にも布教所を開設し、日蓮宗が続きました。
日本の仏教が韓国に進出した理由ですが、純粋な仏教布教が目的ではなく、韓国を日本に同化させようとした日本政府の意向をそのまま反映したものと言われています。
その後、朝鮮総督府は日本の仏教を普及するため、1911年6月3日付で寺刹令も発布しています。
寺刹令を契機に、日本の仏教界は全土に別院・出張所・布教所などを設立しました。
錦江禅寺が建立される前、群山には本願寺、群山寺、安国寺がすでにありました。錦江禅寺を創建した内田仏観は布教を始めた1909年当時、すでに77歳の高齢で、群山地域を布教活動している途中、群山の一条通りにあった家屋を借り、布教所を開設しました。1913年7月に現在の場所に移り、現在の東国寺の建物を新たに建立しました。

東国寺の意義
東国寺は日帝強占期に建立された寺です。日帝強占期に建てられ現在まで残っている日本式の寺はすべて壊され、唯一残っているのが東国寺です。特に、東国寺大雄殿は2003年登録文化財に指定されました。

江西湿地生態公園(강서습지생태공원)

江西湿地生態公園(강서습지생태공원)

2014-10-13

ソウル特別市 江西区 陽川路27キル 279-23
+82-2-3780-0621~3

江西(カンソ)湿地生態公園は、傍花大橋の南端から幸州大橋の南端の間の漢江の岸辺にある生態公園です。淡水池や低湿地が造成された、湿生水生植物が生息する湿地公園として2002年7月にオープンしました。葦畑やヤナギの木の森と調和を成している湿地を貫くように2本の散策路が通っており、また渡り鳥観察台なども設置されています。夏と冬には渡り鳥が訪れ、多様な生態学習プログラムも運営されています。

面積:370,000平方メートル

矗石楼(촉석루)

矗石楼(촉석루)

2020-07-09

慶尚南道 晋州市 南江路 626
+82-55-749-5171

南江(ナムガン)沿いの岩の絶壁に厳かに高くそびえ立っている矗石楼(チョクソンヌ/チョッソンヌ)は、嶺南(ヨンナム=慶尚道)で一番美しい楼閣と名高い建物です。
高麗時代の高宗28(1241)年に創建され、8回に渡り重建と補修を施した矗石楼は晋州城の将帥が命令・指揮を行った南側にある将台・南将台(ナムジャンデ)として役割を果たしたことから将元楼(チャンウォンヌ)とも呼ばれました。戦が始まると晋州城を守る指揮本部として、平和な時期には地方で行われた科挙の初試・郷試(ヒャンシ)の考試場としても使われました。

元々の矗石楼は韓国戦争(1950~1953年・休戦)の時に焼失してしまいましたが、地元・晋州(チンジュ)市民が力を合わせて晋州古跡保存会を立ち上げ1960年に復元しました。
建物は入母屋屋根の多楽楼の形態を取っており、楼閣を支える石柱は昌原(チャンウォン)の矗石山から採石、木材は江原道(カンウォンド)の五台山(オデサン)のものを使用しています。また、楼には4つの扁額や詩人が詠んだ詩板もかけられています。

毎年秋には晋州南江流灯祭りが開催され、ここでしか見ることができない行事が行われます。

慶州ワールドアミューズメント(경주월드 어뮤즈먼트)

慶州ワールドアミューズメント(경주월드 어뮤즈먼트)

2025-05-27

キョンサンブク道キョンジュ市ポムンロ544

慶州(キョンジュ)ワールドアミューズメントは、夏は人気ウォーターパーク「カリフォルニアビーチ」が一緒に楽しめ、冬は大規模なスノーパークを楽しむことができます。絵本の中に迷い込んだような美しい雰囲気のバザーエリアは、慶州ワールドのフォトスポットになっています。多彩なアトラクションから各種施設やレストランまで、見どころ、アトラクション、グルメが三拍子揃った慶州ワールドは慶州観光の必須コースです。

仁王山(인왕산)

仁王山(인왕산)

2024-03-05

ソウル特別市チョンノ区ムアク洞サン2-1
+82-2-2148-2834

仁王山(イヌァンサン)はソウルの北西にある高さ338メートルの岩山です。ソウルの城郭が尾根沿いに続いており、北岳山(プガクサン)道とつながっています。山頂まで登ると、景福宮(キョンボックン)を中心に朝鮮時代の漢陽(ハニャン)を取り囲んでいた駱山(ナクサン)、南山(ナムサン)、北岳山が一望できます。登山コースは5つあり、2時間ほどで登れます。仁王山を縦走する場合は3時間ほどかかります。

七甲山ジャンスン公園(칠갑산 장승공원)

七甲山ジャンスン公園(칠갑산 장승공원)

2024-12-02

忠清南道 青陽郡 大峙面 長谷里
+82-41-940-2194

大衆歌謡によって広く知られた七甲山(チルガプサン)がある青陽は、ジャンスン(チャンスン/村を守る木像)に関する様々な伝説と由来が多い場所で、数百年前からジャンスン祭を開催するなど、韓国最高のジャンスン文化の保存地域といえます。
定山面松鶴里をはじめ、龍頭里・泉壮里・大峙里はジャンスン村として有名ですが、時代の流れによりジャンスン文化が変形・歪曲していくことを残念に思い、青陽郡庁は「七甲山ジャンスン公園」をつくることを決めました。失われ行く伝統文化を継承・発展させ、全国最高のジャンスン文化の保存地域として開発し、観光名所とするため、1999年5月「七甲山ジャンスン祭り」を開催しはじめ、ジャンスン公園というテーマ公園を設けました。ここには韓国最大の七甲山大将軍と七甲山女性軍(高さ11.5メートル)があり、全国のジャンスンが再現されています。民俗学を学ぶ場所として価値があるだけでなく、家族で訪れても楽しめます。七甲山大将軍の全体的な意味は平和・安泰・生産そして跳躍する青陽郡の未来と青陽人の精神を表現します。

碧草池樹木園(벽초지수목원)

碧草池樹木園(벽초지수목원)

2024-10-28

キョンギ道パジュ市クァンタン面プフンロ242

碧草池(ピョクチョジ)樹木園は韓国風庭園と西洋式庭園が融合している植物園で、合計1,400種類以上の植物があります。神話、冒険、自由など多様なテーマで作られた庭園、散策路、池、室内温室、芝生広場などで構成されています。碧草池という池には蓮花が咲く蓮花園がありますが、探訪路が整備され池の中に入って観賞することもできます。周辺の観光スポットとしては朴達山(パクタルサン)、坡州(パジュ)出版都市、世界文化遺産の坡州三陵(サムヌン)があります。

付岩洞(부암동)

付岩洞(부암동)

2024-03-15

ソウル特別市チョンノ区プアム洞一帯

景福宮(キョンボックン)の北にある町です。韓国大統領府だった青瓦台(チョンワデ)に近く開発制限区域に指定されていることもあり、昔ながらの町並みがよく保存されています。古い住宅をリノベーションしたベーカリーカフェやレストラン、小さなギャラリーがあちこちにあるので、お散歩気分で歩いてみるのもいいかもしれません。近くの北岳山(プガクサン)と連携した散策コースは、のどかな森の中を歩きたい人におすすめです。

奨忠洞豚足通り(장충동 족발 골목)

奨忠洞豚足通り(장충동 족발 골목)

2022-09-19

ソウル特別市チュン区チャンチュンダンロ176

50年以上前、現在の「奨忠洞豚足通り(チャンチュンドンチョッパルコルモク)」から少し離れたところにマンジョンビルという建物があり、そこに2軒の豚足店がオープンしてから、奨忠洞豚足店の歴史は始まりました。その2軒の豚足店は現在も豚足通りで営業しています。最初にオープンした店では当初、豚足は出していませんでした。ピンデトク(緑豆チヂミ)と餃子をメインメニューとしていましたが、安くてお腹を満たすものが食べたいというお客の要望に応え、店の主人が子どものころを思い出しながら豚足を出すようになりました。このように始まった奨忠洞の豚足は、70年代後半と80年代初めにかけて人気を博し、現在の豚足通りに豚足店が続々できました。こうして形成されたのが奨忠洞豚足通りです。

鳳凰台(慶州)(봉황대(경주))

2019-01-07

慶尚北道 慶州市 路東洞
+82-42-481-4650

鳳凰台(ポンファンデ)は、路東洞古墳群内にある新羅の時代の古墳です。古墳はその地域の名前や出土した遺物に関する名称で呼ばれるのが一般的ですが、鳳凰台は墓という意味を表す「陵」などの名称もつかず、鳳凰台と呼ばれている点が珍しいです。
墓の直径は82m、高さは22mで墓というよりは裏山のような雰囲気があります。墓の規模から見ると王の墓であると推測されますが、明らかなことは未だ明らかになっておらず、正確な事実は分かりません。