5.2Km 2020-04-09
ソウル特別市 中区 茶山路 217-1
+82-2-2234-3649
終点(チョンジョム)トッポッキは1978年に開業したお店で、新堂洞(シンダンドン)トッポッキタウンでも大変人気の高いお店です。 トッポッキにご飯を混ぜて焼飯にして食べるこの店ならではのメニューが好評です。
5.2Km 2025-01-06
ソウル特別市チョンノ区チャンギョングンロ185
昌慶宮(チャンギョングン)は世宗大王(セジョンテワン)が王位を退位し上王となった太宗を迎えるため、1418年建てた寿康宮(スガングン)がその始まりです。以降、朝鮮王朝第9代の王・成宗(ソンジョン)の施政になり、第7代の王・世祖(セジョ)の后・貞熹王后(チョンヒワンフ)、世祖の子で即位することなくこの世を去った徳宗(トクチョン)の后・昭恵王后(ソヘワンフ)、第8代の王・睿宗(イェジョン)の后・安順王后(アンスンワンフ)を迎えるために明政殿(ミョンジョンジョン)、文政殿(ムンジョンジョン)、通明殿(トンミョンジョン)を建て、昌慶宮と命名されました。
昌慶宮には辛い歴史が数多くあります。壬辰倭乱(日本でいう「文禄・慶長の役」)の時には建物が全焼し、 李适(イ・グァル)の乱や丙子胡乱(丙子の乱)の時にも禍を受けました。朝鮮王朝第19代の王・粛宗(スクチョン)の時代の仁顯王后(イニョンワンフ)と張禧嬪(チャン・ヒビン)、朝鮮王朝第21代の王・英祖(ヨンジョ)の時代、英祖の次男で米櫃に閉じ込められ死に至らしめられた思悼世子(サドセジャ)の逸話などが昌慶宮に残されています。
史跡・昌慶応宮は日帝強占期に日帝により昌慶苑に格下げされ、動物園になってしまいましたが、日帝の残滓をなくすべく韓国国民の努力により1987年から古の本来の王宮の姿を取り戻しました。
弘化門(ホンファムン)、朝鮮王朝の正殿の中で最も古い建物である明政殿(ミョンジョンジョン)、通明殿(トンミョンジョン)、養和堂(ヤンファダン)、春塘池(チュンダンチ)などがあり、陸橋を渡って宗廟(チョンミョ)とも行き来ができます。
主な文化財 - 弘化門(宝物)、 明政門(宝物)、明政殿(宝物)、通明殿(宝物)、玉川橋(オクチョンギョ宝物)
5.2Km 2022-12-26
ソウル特別市チョンノ区チャンギョングンロ185
「弘化門(ホンファムン)」は昌慶宮の正門に正面3間、側面2間の重層寄棟屋根で多包式で作られています。石造の基壇の上に、原型の礎石を置いており、門楼下層は両開きの板門が設置され、出入りできるようにし、上層は板床の楼が設置されています。大韓民国の宝物に指定されています。当初1484年に建てられましたが壬辰倭乱(日本で言う「文禄・慶長の役」)の際に焼失し、1616年に再建されました。
5.2Km 2024-03-11
ソウル特別市チュン区ウルチロ43ギル9
+82-2-2266-3030
ハナムデジジップは、東大門(トンデムン)DDPの近くに位置している豚焼き専門店です。下焼きした肉が出てくると店員が切って鉄板の上にのせます。肉を焼くときやキムチ、キノコなどを一緒に焼いても美味しいです。東大門ファッション商店街が近くにあります。
5.2Km 2024-01-25
ソウル特別市ソンドン区チャドンチャシジャンギル49
「新活用」とは、廃資源にデザインを加えたり使い道を変えたりすることで新しい価値を生み出す「アップサイクル(Up-cycling)」を韓国的な表現に言い換えたものです。ソウル新活用プラザはアップサイクル関連の展示やアップサイクル実践教育・体験プログラム、デザインスタジオ、アップサイクルセレクトショップ、工房などを運営しています。資源循環社会実現に向けた第一歩となる、モノを大事に長く使用する方法を知ることができるところです。
5.2Km 2021-04-06
ソウル特別市 城東区 ヘンダンロ112-5
+82-2-2294-6995
芸能人がよく訪れる名店です。代表的なメニューはバックリブです。ソウル特別市のソンドン区に位置した韓食専門店です。
5.2Km 2024-03-20
ソウル特別市チョンノ区チョンノ32ギル5
+82-2-2264-5057
スンヒネピンデトクは、広蔵(クァンジャン)市場にあるピンデトクと肉団子のお店です。ピンデトクは、緑豆を挽いてキムチやワラビ、豚のひき肉などを混ぜて平たく焼くものです。このお店は石臼で挽いた緑豆を使って、その場できつね色にカリッと焼いた絶品のピンデトクを提供しています。ピンデトクを付けて食べる秘伝のカンジャンもピンデトクと相性抜群です。伝統市場の中にあって活気あふれる雰囲気も魅力の一つです。
5.3Km 2021-02-24
ソウル特別市 中区 退渓路344
+82-2-3700-3900
「光熙門(クァンヒムン)」は1396年に土城創建の際に東側に建てられた小門です。実質的な土城の南小門として水口門とも呼ばれました。清渓川が流れている場所に建てられた水門は距離的には東大門の方が近くにありましたが、南小門が奨忠壇公園から漢南洞に越える丘があったため便宜上、「水口門」と呼ばれていたとされています。水口門は実質的には屍躯門として利用され、西側の西小門と一緒に土城内の葬礼行列が東方向に進む時に通過する門でした。
光熙門は日帝強占期に電車のレール敷設工事のため、城郭を撤去する際にも門と門楼はそのまま残っていましたが、韓国戦争(朝鮮戦争)の際に門楼が破壊され、そのまま放置されました。その後1975年に、道路の真ん中に位置していたため南に15メートルほど移転し復元工事が行われました。